AH-64 アパッチ

柘榴草

 仕事の帰り道を急ぎ足で歩いていると、多趣味に貪欲に毎日を過ごしてみるのはどうだろう、と思うことがけっこう頻繁にあった。
 会社の同僚で山登りと野鳥の観察を趣味にしているやつがいて、ビルの森では潔癖で小心なところがあるような人間だが、ひとたび山に入ると彼は驚くほどいい顔をする。仕事をしている間には決して見せることのない顔だ。
 そういう意味でまさしく多趣味で貪欲な人間といえば、僕にとっては妻である。妻は僕と違い、突拍子もないことを思いついては目を輝かせて取り組む。パート業をやっていたのだって、僕は会社、娘は幼稚園で、誰もいない家にいると退屈だからという始末だったのだ。
 ところが二年ほど前に、妻はパートを辞めていた。僕の収入だけでも生活に足りていたのもあるし、六歳になる娘のためでもあるが、一番の目的は裁縫ボランティア『あぱっち』に参加する時間を作るためだった。『あぱっち』は余りものの布などを再利用して服や鞄を作り、バザーで売って、売り上げや繕った衣服を海外へ送るというボランティア団体だ。
 その妻が『あぱっち』の定例会を前に熱を出して動けなくなってしまった。娘の送り迎えや家事などは、僕がやることもたまにあったので特に困りごとはないが、定例会に関しては、僕には何もノウハウがなかった。
 定例会というのは『あぱっち』活動の一環で、収益金をどこに送るかという相談や、今後の活動の方針などの話し合いをするための会合だ。裁縫ボランティアなんてやるのは四十も過ぎたオバサンばかりだから、お喋り会も兼ねているのだと妻から聞いていた。そして妻が倒れた二日後の本日これから、定例会が二つとなりの町で開かれるのだった。
「この紙をね、渡してくれるだけでいいの。急いで作ったから。あと、相手方の人に渡してくれれば、あなたは何もしないでいいように頼んであるから、渡してくれればそれで十分だから」
 昨日僕が会社に出る前にベッドへ様子を見に行くと、妻が申し訳なさそうに言ってきた。資料は夜な夜な作っていたらしい。そんなことをしたら余計治りが遅くなってしまうのではないかと僕なりに気を使うと、反省してくれたのか、妻はそれ以上何も言わなかった。ボランティアには働いている人もいるから、定例会は土日に設定してあることが多く、それで幸か不幸か、僕には断る理由が何もなかった。僕は渋々了承して、電車を乗り継ぎ、この町までやってくるしかなかったのだ。
 駅前はいい具合に寂れた商店街のようになっていて、昼過ぎだというのに人の気配はそれほどなく、のら犬でも飛び出してきそうな気配だった。裏路地を進んで行くと、公民館は銀行やNTTの巨大で清潔な建物の向かい側にあって、入り口に大きく標語と地区祭りの広告が掲げられていた。壁にはツタが這っていて、お世辞にも綺麗だと言えるものではなく、受付にも人がいないので入っていいのかどうかも定かでないまま、僕はその場に立ち尽くしていた。集会の時間までは、まだ十五分もあった。
 太陽は僕の頭と背中を容赦無用と攻め続けていた。中に入ればクーラーの過剰に効いた部屋と、深いしわが白くなった合成皮革の茶色いソファが待っているかもしれないのに、僕は外のベンチに座ってしばらく様子を見ていた。気持ち程度に、白いパイプが囲むように設置され、巻きついた藤の花で日陰になっていた。紫の鮮やかなその花には蜂が集まり、逆光でその体は暗い黄色に見えた。眩しいから薄目を開いて追いかけ、刺されたら危ないな、と思いながら僕はぼうっとしていた。
 車の止まる音で目を向けると、公民館の中へ女の人が入っていくのが見えた。少し立ち上がって中を覗き見ると、その女性は受付の奥にある階段を上っていった。話し合いがあるのは二階の202号室だと聞いていたから、たぶん自分と同じ目的なのだろう。
 僕は後をついて行こうとしたのだけれど、会場を想像して躊躇した。もしかすると会場には、今の女性一人しかいないかもしれない。そうしたら、時間ぎりぎりに入るのがいいのだ、という風に思った。元の位置に戻って腰を下ろしてからも、何人もの人が入って、きっと階段を上がっていったが、思ったとおりそれは四十を過ぎたような女性ばかりだった。数人がこちらに視線を向けているような気がしたが、気には留めなかった。蜂の羽音がうるさかった。ふと、やっぱり断ってしまうのが良かったかな、などとも思っていた。
 腕時計ばかり見るのもちょっと退屈になってきて、僕がタバコを吸おうとポケットに手を伸ばしたときに、男が一人車から降りてきた。僕より十くらい年をとっているように見えた。
 僕はすばやく手を引っ込めて、その男が中に入って見えなくなる前にひそかに後を追った。怪しく追尾する僕にはまったく気づかないまま男は二階に上っていき、廊下をスタスタと綺麗な姿勢で歩いて、くるりとターンするように、華麗に右へ体の向きを変えて202号室へ入った。
 男の背を見届けると僕は一旦トイレへ行って入念に手を洗った。そして二回目に手に石鹸をつけながら、あの男の素性を想像した。僕と同様に妻の代理で来させられたのだろうか。中に友人でもいて、誘われたのだろうか。それとも裁縫が趣味とかで、自らボランティアとして参加しているのだろうか。今どきそれも珍しくない。だったら、それは何だかいいことだなあ。古い学校によくあるように、水道のどこかが甲高い音を立てていた。

 最後にトイレットペーパーで鼻をかんでから決死の覚悟で部屋に入ると、そこには思ったより沢山の人がいた。一番後ろから二つ前の席に座ったが、広い部屋でも皆さん積極的に挙って前列へ出て行くので、人数のわりに席はスカスカで、孤立するのも嫌なのでもう三列くらい前へ出た。さっきの男は最前列に座っていた。
 ああ、なんだ。彼はボランティアか。偉いけど、なんだ僕と同じじゃあないんだな、と思った。
 前に黒板があって何か書いてあるから、鞄からメガネを取り出そうとして、妻に預かっていた封筒が目に入った。鞄の中で隠すように中を覗いてみると、数枚の印刷された紙に、手書きで訂正などが書いてあるのが見えた。さて、誰に渡せばいいのだろうか。思えば、風邪であまり説明をさせるのは悪いだろうと、そういうことは一切聞いていないのだった。
 後ろの方に座ったことが災いし、左右のとなりには誰もいなかった。でも、きっと始まる前に届けないとこの資料の中に書いてあるだろう妻の意見が伝わらないだろうから、僕は辺りを見回し話しかけやすそうな人を探した。
 真っ先に目についたのは、若くて、黒の混じったこげ茶色の長髪を後ろで束ね、キャミソールを着た明るそうな女性だった。彼女は一人だけ黄色い声をしているので傍目には浮き上がっていたが、隣のおばちゃんと談笑して上手く場に溶け込んでいるようだった。僕のような者にとってそれはむしろ話しかけ難いタイプの人だが、きっといい人なのだろうなと思った。
 他の人たちも、ハツラツとした様子でいかにも四十代の女性特有の不満と興味を募らせた世間話などしていた。いかにも旧世代の者どもの空気で、この独特のフィールドに入ってしまうと、僕の妻も相当老けて見えるのだろうな、と思った。誰も暇そうな人がいないので、たまに立ち上がったり座ったり挙動不審にしていると、前の男が卒業式の中学生のように音もなく立ちあがり、こちらに向かって歩いてきた。思わず僕は下を向き、肩を縮め強張らせた。彼は獲物を狙う鷹のように目を見開かせ、滑るように一瞬のうちに僕との距離を詰めた、ように思えた。
「あのう、本居重孝さんですか」
 意外なほどにその声は優しかった。顔を上げると、想像していた鬼の形相とは似つかない柔和な表情があった。
「そうです本居です」
 僕はとにかくホッとして、後のことはこの人に任せてしまおうとできるだけ明るく返事を返した。
「田嶋と言うものです。奥さんにはお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそですけれど。妻が、ご迷惑をおかけして、何か聞いていらっしゃるんでしょうか」
「男の人って聞いていたものですから。見かけない人だし、男の人と言えばもっと少ないですからね」
 僕と田嶋さんはちょっとした不安を共有したみたいに、小さく笑った。僕のは「ははは」というので、田嶋さんのは「ふふふ」というのだった。
「この、これなんですけど」
 僕は鞄から封筒を取り出して、田嶋さんに渡した。田嶋さんはありがとうございますと言ってそれを受け取ると、また前の方の席に出ていって、座って渡した紙を見ていた、かと思うと、それを持って一段高くなっているところに立って、マイクを取った。
「えーと、みなさん、お揃いでしょうか。そろそろはじめたいと思いますが」
 田嶋さんは司会進行役を承っているようで、これから話し合いが始まるようだった。
「みなさんお久しぶりです。今日は、今年の会計をやってくれている本居典子さんがご病気で来られませんので、旦那さまが資料を届けてくださいましたので、まずその報告をします。前回の納涼集会の予算ですが……」
 田嶋さんはテキパキと話していった。僕は聞いているつもりでも右から左で、あっという間に喋り終えて田嶋さんは引っ込んでしまった。次に出てきたのは、分厚いメガネをかけたお婆ちゃんで、今度は声が小さくて聞き取れなかった。それからも何人かの人が入れ替わり前に出ては何か報告のようなことをして、しばらく耳を傾けてみても妻から聞いていた通りそれは退屈の一言だった。前に出た中には茶髪の女性の姿もあった。あの若さでボランティアに積極的に参加しているのだから、何か特殊な経験でもあるのだろうかと、話はそっちのけで想像すると楽しかった。
 そのうちにもう僕は諦めて、今頃妻は何をしているのだろうかと考えた。昼まで寝たら、実はもう体調も良くなって、洗濯もしてご飯を作って待ってくれたりしないだろうか。もっと悪化して、苦しいのに看病してくれる人がいなくて寂しい思いなどしていないだろうか。
 前に立って真剣にミャンマーの話をしている人には本当に失礼だけど、そして生活を苦しんでいるミャンマー人にも非常に失礼だけれど、僕は眠ることにした。パイプ椅子は背もたれが頼りないので、前に体を丸めて、額とひざとの間に空っぽの鞄を挟んで、目を瞑ると、すぐに意識が遠のいていった。ミャンマーでは日本で廃車になった、何とか観光などと書いてあるバスがそのまま走っているのだ、と力説しているのが最後に聞こえた。そうだ、収益金は、ミャンマーに送ればいいのだ。きっとそうなのだ。

 人々が立ち上がる、椅子が床板とこすれる音と振動で僕は目を覚ました。
「食事会に行く人は、この場に残って、前の方に集合してください。『あぱっち』の話し合いもしますから、できるだけ、参加してください」
 みんながパイプ椅子や机を元の位置に戻しているところに、マイクを手に仕切っているのは、今度は田嶋さんではなくて、背丈の小さい初老の女の人だった。僕は何とはなしに、お茶と煎餅が生きがいですって顔だな、と思った。
 妻には二次会も出て話だけでも聞いてくるようにと言われていたが、僕はこのなかで食事なんか行けないだろうと思っていた。帰ってくる時間があまり早いと怒られるだろうから、せめて誤魔化しに本屋で暇つぶしでもして帰るつもりだった。片付けも自分の周りだけ済ませて、とにかく廊下へ出たところで、田嶋さんが窓に背を持たれて立っているのを見つけた。
「あ、待っていたんです」
 と田嶋さんは出し抜けに言った。
 もしかして寝ていたことを注意されるのではないかと萎縮していると、どうやらそれは違った。田嶋さんの目的はつまり、たまにでいいから僕に『あぱっち』の集会に来てくれないだろうか、ということだった。
「料理のできる男は、もう当然のようにいますけれど、裁縫のできる男は頼りになりますよ」
 そういうことを言っているものの、どうか男一人のままでは嫌なのだという意思がびりびりと伝わってくるようだった。男の肩身が狭いのは、ああよくわかるよ、と言ってやりたかった。その滑稽なほど真剣なまなざしが好印象で、僕は適当な相槌を打ちながら、来るだけでこの紳士の助けになるのだったら妻と一緒にまた来てもいいかなと思えていた。
「ところで食事はどうします。私らはこれからいつもの魚料理屋だと思いますが、今はヒラマサがおいしいですよ。でも、車がないでしょう。歩いていけない距離ではないですが、もしよければ」
 田嶋さんは押しの一手だという具合に間髪をあけずに言った。その誘いを受けて僕は急に態度を翻した。
「いや、今回は……」
 室内からお茶煎餅が人数を確認する声が聞こえてきた。田嶋さんは普段から一人で行っているのだろうか。少なからず交流があるようだから、僕がいなくてもヒラマサの刺身定食を談笑しつつおいしく食べられるのだろう。
「忙しいんですか?」
「ええ、今回ばかりは本当に、申し訳ないんですが」
 実のところは断るようなたいした理由も無かったので、僕は口ごもりつつも強めに言った。
「いえそんな、無理はしないでください。居心地がよくないのは、重々承知のつもりだったんです。それなら仕方ない、食事分の料金、私が返してもらってきます」 「料金ですか?」
「予約人数を確かめるとかで先に集めることになっているんです」
 咄嗟に寝ぼけていた間の記憶を探った。食事会の代金など渡した覚えはまったくないのだ。まさか寝たまま財布を取り出して代金を渡すまで無意識でこなせるほど、僕は器用ではないだろう。
「あの、まだ払っていないことはないですか? 妻が事前に払っていたとかでしょうか」
「えぇと、封筒に入っていたはずですよ」
 なるほどしまったそういうことか、やられた! と思ったが僕は何もいえなかった。僕は間抜けな人間だけど、妻や田嶋さんは真面目なのだな、と思った。
「それじゃあ、ちょっと言ってきますね」
「いえいえいいです、どうせだから、行きましょう。乗せてください」
 僕がそう言うと田嶋さんは思いがけず嬉しそうに笑った。

 田嶋さんの車は、そのおおらかで優しい性格にぴったりの黒いワゴン車だった。僕と田嶋さんが乗っても出発しようとしなかったので、少し待っていると、助手席に女性が乗り込んだ。
「咲子です。娘です」
 と田嶋さんは紹介してくれたのは、会場で見たこげ茶色の頭をした女性だった。二人の顔を改めて見比べると、なるほど、微かに似ていないこともなかった。車の中ではあまり会話がない気まずい雰囲気が流れた。
 到着したお店は外装がやたらと凝っていて、本物の竹林と見える場所を抜けたところで、太い木の幹を輪切りにした看板と横開きの戸をくぐってやっと座敷にたどり着いた。僕は腰を下ろすまで田嶋さんから離れないように、すぐ後ろを金魚の糞さながらついて行った。
 座席が本日の生死の分かれ目であったが、これもよい具合に田嶋さんの左隣、壁際という、平穏を保てる位置を確保することができた。娘の咲子さんは少し離れた、僕から見て背中が見える場所に座っていた。座った途端に人々は会話をはじめ、周囲がざわめきだした。天井に取り付けられた大き目の空調が静かに音を立てて冷たい空気を吐き出し、それが僕の背中に当たって首筋が涼しかった。
 先払いしているはずだけれど、当然メニューは商品によって値段が違っていた。妻は何も教えてはくれなかったが、そういうことについては何か取り決めがあるのだろうか。けちな話だけど、気になってしまったものは仕方がない。
「どれを頼んでもいいんですか?」
「ええ、どれでも頼んでください、私はこれにします」
 田嶋さんは季節の刺身とご飯、味噌汁、漬物セットを指差して言った。僕はそれ以上聞くことができなかった。余った分は寄付にでもなるのだろうか。ヒラマサだって高級だし、僕はボランティアではないのだから、いっそ今日のご褒美として高いものを食べてやろうと思って、僕は期間限定のうな重をお願いすることにした。  隅に座ったおかげで、僕に話しかけてくる人は田嶋さんと対面に座った数人しかいなかった。それももっぱら妻に関する話題ばかりで、家庭での様子などを聞いてくるので、僕は調子に乗って失敗ごとなどをぽろぽろと口からこぼしていった。その間も、咲子さんのこげ茶色の頭が妙に目立つので、ことあるごとに目に飛び込んでくるのだった。
田嶋さんが適度に合いの手を差し伸べてくれるので、思っていたよりは居心地がよくて、田嶋さんからいただいたヒラマサの欠片もうな重も非常に満足であった。  そろそろ皆が食べ終わったというところで、田嶋さんが僕の耳元に顔を近づけて言った。
「ちょっと、おごりでいいですから飲みに行きませんか。皆さんとは別です。咲は一緒で」
 咲子さんのほうを覗き見ると、何かの打ち合わせだろうか、真剣な顔をして話をしている最中だった。迷惑でもなかったし、僕は田嶋さんの誘いに快く承諾した。秘密の相談事のように耳元でささやくと、聞こえなかったようで、行きます、と二回言うことになった。『あぱっち』の他のメンバーがぞろぞろと蟻の軍隊のように店から出て行くのを見送ってから、華麗に歩く田嶋さんのあとを、咲子さんの横を、わざと少し乱暴気味に歩いた。

 青いネオンでBLUEBと書かれたそのお店は、ブルービーと読むのだよ、と田嶋さんは教えてくれた。入り口は木の扉で大人の雰囲気を放っており、中に入ると暗めの照明とオーナーらしき人、それにバイトの男の子と女の子がいた。壁際に様々なお酒のボトルが並べてあり、それに合わせてぐるりと丸くカウンター席になっている不思議なつくりで、僕たちは向かって右の椅子に腰をかけた。
「あの、娘さん、咲子さんに連れられて、というとおかしいですけど、一緒に来ているんですか」
 二人とも同じ苗字が田嶋だから、僕は咲子さんのことを咲子さんと呼ばなければならなかった。
「いえ、それはちょっと違うんです」
「あたしは趣味で裁縫をやってて、おまけにボランティアに参加してるんだけれど、父はもともとボランティアのお手伝いをするために来ています。裁縫はやらないんです」
「だから、同じボランティアをやる事になったのは、まったくもって、とは違うかな、私はもともと他のことをやっていたから。とにかく偶然のことなんですよ」  二人はぴったり息の合った説明で僕に訳を話してくれた。
「それと気になっていたんですけれど、田嶋さんはいくつなんですか」
「今年でもう、丁度六十になります。本居さんは、まだお元気な年ですよね」
 田嶋さんは年齢に比べて驚くほど若く見えた。時折見せる軽快な動きも、六十歳とはとても思えない。しかし確かに、咲子さんほどしっかりした女性が娘なのだから、六十で合点が行くのだった。
「じゃあ僕は二十も下です。三十八で」と僕は答えた。
「じゃあ咲もあまり違わないですよ」
 そう言うと田嶋さんは嬉しそうにふふふと怪しく笑った。
「いくつなんですか」
 正面に並んだ西洋風の人形を観察しながら僕は言った。
「どう見えます?」
 僕は二十から一つずつ数え上げていった。二十、もっと上です、二十一、嬉しいけどもっとです。そして二十三まで行った所で、
「ずるいです」
 そう言って咲子さんは顔を膨らした。あるいは何か口に入れていたのかもしれない。
「じゃあ二十八ですか」
「あら、あたり」
 テンポが大事だと攻めていた僕は、今度は下げていこうとして思わず「えっ」と声を出したが、咲子さんはにこやかに笑ったままだった。
「二十八歳なのか……」
 と心の中で言った。僕は最初見たときに咲子さんがひょっとすれば十代かもしれないと思ってたくらいだから、その歳の発覚には田嶋さんのこと以上に驚愕した。そして、田嶋一家は歳のわりに若く見える家系なんだな、しかし奥さんは田嶋さんと血が繋がっていないから違うのか、という変なことを考えていた。
「突然ですけど、パッチワークって分かります?」
 咲子さんがくるっと首を回して僕の目を睨みつけて言った。
「いや」
 とだけ首を軽く振って言うと、
「いけないですパッチワークを知らないと。キルトとかの布を切って縫い合わせる、すごい芸術なんです」
「はあ、芸術ですか」
「芸術なんですこれなんかです」
 そう言って咲子さんは、足の間に挟んでいた手提げ鞄の中からさらに小さな鞄を取り出した。それは柔らかそうな布でできた質素な手作りのバッグだった。地は紅色で、そこに白い風車状の民族風の模様があった。そしてそれは様々な布の継ぎはぎで出来ているのだということが見て取れた。
「私は思うんですけどね、ええ、こういう手作業でできた模様は、機械的じゃなくて美しいんですよ。繰り返しの機械はね、だめです。ちょっと無理やりでボロボロだからいいんです。それにバザーでよく売れるんですよ」
 僕は咲子さんの言っていることがよく理解できなかったので、田嶋さんの方へ目線を送った。すると田嶋さんは苦しげにウインクするような難しい顔をした。田嶋さんは咲子さんとはまるっきり反対で酔うと無口になる人のようだった。そのウインクはまるで「咲は酔っているから相手にしなさんな」と言っているようで、僕はそのようにした。咲子さんのパッチワーク論は解読できないまましばらく続いたあと、一通り話したのか大人しくなった。
「お二人はどっち方面に帰るんですか?」
 僕はマティーニをすする様に味見してから、田嶋さんが電車で帰るものだとばかり思ってそう聞いた。控えめのライトでキラキラと光るマティーニはカクテルのわりには辛口だった。
「父の車で帰ろうかと思って」
 新しい客が入ってくると、ベルが乾いた音を立てる。
「あの、大丈夫ですか、運転は」
「知り合いの代行を頼みますから」
 そう言って田嶋さんは、グラスに注がれたジン・トニックをグイッと飲み干した。
「あ、そうか。代行はやだなあ。お父さん、私のこと無視して、運転手さんと話してばっかいるんだもの」
 それから咲子さんは、田嶋さんと同じように、マンハッタンのグラスを勢いよく傾けたが、その小さな口では半分も飲めないで戻してしまった。
「電車で帰ろうかしら」
 咲子さんは悲しそうな美しい顔でそうつぶやいた。
 それからもう二、三杯飲んで、手羽先なんか頼んだりして、素面の顔をして田嶋さんはかなり機嫌が良いようで、結局僕はおごって貰うことになった。店を出ると田嶋さんは本当に一人で代行を呼んで、
「また飲みましょう」
 などと残してあっさり帰ってしまった。
「いつもそうなんです」
 と咲子さんは呆れたように言っていた。
 外は街灯が少なくてすっかり暗く、僕にはまるで道が分からなかったので、駅まで歩く道は咲子さんがいてくれなければきっと迷ってしまっただろうと思う。もう夜も更けて、という気がしていたのだが時計を見るとまだ十時だった。
「あら、これなら、まだ飲めますよねえ」
 もう目の前に駅が見えたときに僕が時間のことを口にすると、咲子さんは既に大分酔ったような状態で、にやりと笑って言った。
「じゃあ今度は、僕がおごりますよ。安いお店で二人分くらいなら、それなら」
 僕もにやりと笑った。
「そう来なくっちゃあ!」
 と咲子さんは可笑しなほど勢いよく言った。
 僕たちは咲子さんの先導で駅前の焼き鳥屋さんへ行って、今度はビールを沢山飲んだ。咲子さんも二軒目だとは思えないほど豪快だったし、僕もこの方が性に合っているなあ、としみじみ感じた。咲子さんは遠慮なく鳥皮をお腹いっぱい食べた。咲子さんはまたパッチワークの話をしてくれた。さっき言い忘れたんですけどね、あたしとパッチワークの関係はね、あら『あぱっち』に似てますね。僕は咲子さん相手に自分が饒舌になっているのが分かった。最後には咲子さんは前後不覚になるほど酔っ払って、水を沢山もらってやっと歩けるほどだった。

 駅に着いたのはもう零時になろうという頃だった。それぞれ違う切符を買って改札をくぐると、ホームには生ぬるい空気が溜まっていた。
「ジュース買ってきますよ。何がいいですか」
 と僕が聞くと、
「なんでもいいです」
 と咲子さんは眠たそうに言った。
 僕は、烏龍茶と緑茶を買って、お釣りを取りながら、田嶋さんと咲子さんは嘘ばかり言って僕を陥れようとしているんじゃないかと思っていた。それなら年齢も嘘で、咲子さんはきっと三十二だ。親子というのも嘘じゃないだろうか。失礼極まりない子供のような被害妄想だ。ありえない冗談として考えているのであって、そうでない部分もあった。
 ベンチに戻ると咲子さんはじっとこっちを見つめていて、二本のペットボトルを差し出すと烏龍茶を選んだ。
「本居さん、電車来ますよ」
 僕の乗る上り方面の電車は、咲子さんのより早く出発する予定だった。
「いや、僕は遅く帰っても大丈夫だし、まだ終電でもないし、少し待っていようよ」
「いようよだなんて言われたら、断れないです」
 そう言う咲子さんの唇は湿っていて妙に色っぽかった。
 僕と咲子さんは交互に喋りながら、交互にペットボトルのお茶を飲んだ。咲子さんは続けてパッチワークへの情熱を語ってくれた。僕はもうパッチワークに関連する話の引き出しの多さに感動すらしていた。その間に上りの電車が来て、来たね、来ましたね、と言い、出発するのを見送ってから、行っちゃったね、行っちゃいましたね、なんてことを話した。鼓動が早くなっているのが分かった。
 少し無言でいると風がびゅうと強烈に吹いて、咲子さんの髪が僕の首筋に触れた。それが何回かあった。放送が流れて、下り電車がゆっくりと近づいてきた。
 去り際に咲子さんが、言うなら今だ、というような気迫で
「また、来てくれますよね!」
 と、あいうえおの発音が曖昧な、呂律の回らない口調で言った。
「うむ。気が向いたらきっとね」
 と僕は冷静を気取って言ったが、なんだか、もうあの場に行く気は殆どなかった。
 咲子さんを見送って、僕も自分の電車に乗った。酔っていたからかも知れないが、ずっと外の風景を見ていたということ以外は何も覚えていない。
 駅に着いてからはタクシーを取った。代金を支払って、ふらふらと寝室までたどり着き、妻の寝ている横のベッドに入ると、急にだるくて、熱を計ったわけではないのだが、妻に風邪をうつされたのだろうな、そして咲子さんはもう家に着いたのだろうな、と思った。寒気がして、面倒なことは明日にしようと思って、僕はそのまま寝てしまった。